2019/09/30
「芙美湖葬送」は私小説です。
妻を看取ってから間もなく17年になる。月日の経つのは早いものだ。はるか昔の出来事になってしまった。妻が斃れて三か月後にこの世を去った。もう十七年前のことだ。七月の暑い日だった。妻は、もともと甲状腺肥大を患っていた。甲状腺ホルモンが極端に足らなくなったり過剰になったりした。喉が腫れあがった。結果的には橋本氏病になった。体調も年中不調だった。
その年は猛烈な暑さもあって、異常なまでに汗をかいた。
「みてよこの汗」と妻は額を突き出した。
私も体調を崩していた。血圧が異常に高かった。そんな私を妻は不安に思っていた。二人に寝込んら大変なことになる。多くに高齢者夫婦がそんな不安の中で暮らしている。どうかしたの。妻が私を振り返った。その瞬間ぐらりと私の体が泳いだ。
その時も私は降圧剤を止めていた。体調によって飲んだり飲まなかったりするは良くない。医師からは注意されていた。しかし現実に、飲むと却って不調になった。そのことを医師に訴えたが、医師は無視した。
呑むか飲まないかは自分で決める。自己責任でいい。飲んで体調が悪くなるなら飲まない方がいいに決まっている。それで死ぬなら、仕方ない。ただ病弱の妻のことが気になっていた。同じ総合病院の同じ医師に掛かっている。
同じ町内に娘夫婦がいる。長女も次女も別に所帯を持っている。もし私がいなくなったら相談し合って母親の面倒くらい看るだろう。
変な話だが死にたいとは思わなかったが、生きたいという強い欲求もなかった。その時の状況で、どうなっても構わない。なかば諦めに似た感情があった。妻も六十歳を幾つか超えていたし私は七十歳に近かった。友人の二人はごく最近ん死だ。そんな年齢になっていたのである。
私は妻と母の為に墓を造りたいと考えていた。田舎にそのままになっている父親と妹の骨がある。田舎は引き払ったから、いまは神戸に遷っている。その骨を墓を造ったら移したいと思っていた。
さいわい市営霊園が抽選で当たった。
一緒に入れる墓は造りたい。墓地は既に用意してある。墓工事する金がなかった。なにしろ六平方メートルの大型区画なのだ。市営だから抽選である。抽選にあ当たって毎年管理費を払ってきた。工事だけが始まっていない。始まれば二週間以内完成するだろう。肝心の金がない。ところが妻の突然の死でその金が出来た。共済金が入ったのである。
その金で墓を造った。せっかく作った墓だから妻の骨をおさめたい。私も死ぬかもしれない。母親も九十歳を超えている。いつ死んでもおかしくない。しかし母親は同居している実の娘と一緒に金をだし合った別な墓もつくってある。呆けたのだろうか。ときに老人の思考は分からないことがある。わつぃもそう思われているのだろうか。墓誌に、妻とと一緒に母まで朱で彫りこんである。私も同じだ。縁起でもない、と娘に嫌な顔をされたが、結果的にそうなってしまってもし刀と思っている。
墓が完成し、納骨を済ませてからは、娘に誘われても墓参は避けていた。気が滅入るからである。しかし春になって、簡単な花見を、墓の近くにある休憩所でやろうと婿に誘われた。
墓所の脇に、墓参客のための休憩所がある。丸いテーブルが幾つかしつられてある。そのテーブルには固定の木の椅子が取り付けある。弁当を開くにはもってこいの場所だし、市営霊園だから、派手に賑あう花見客もいない。引きこもりがちになっている私を連れ出そうという婿殿の思いである。
断り切れないで結局行くことにした。
私は、台湾から引き揚げたた直後に父と妹を失っている。
その骨を、家族と一緒に葬りたいとかねがね思って来た。
亡くなったお爺ちゃんのためにも、早く墓を作って、死んだら、此処にみんなで眠ろうねと妻にははいつも語ってきた。
妻は体調がいい時は霊園に連れてきたことがある。まだ空き区画のままの時だ。バブル崩壊後の不況で、なかなか墓を作る金を捻出できない。そんな時、墓地の広さが六平方メートと広いことから、内密に権利を譲って欲しいという話が墓園業者を通じてあった。その代わりに半分の、三平方メートルの墓を、墓石工事込みて無料提供する、という話だった。
妻がまだ外出できる頃だったので、車いすを積んでその霊園を見に出かけた。同じ市営ながら山の斜面を削った霊園である。
場所を見た途端、妻の顔が曇った。小さな声で、こんな寂しいところ嫌だわ、といった。
それ以来、妻はあんな寂しい墓は嫌だと言い続けた。桜に囲まれた今の墓地に比べれば、確かに辺鄙な山奥にあったし、山の急斜面を削って作った墓は、見るからに暗く重い雰囲気だった 墓とは、もともとそんなものだと云ったが、妻が頑としてあんな寂しいところには眠りたくないと云った。戦後のどさくさ紛れに、死に、そのまま放置した形の父や妹のためにも、やはり妻の云うように、明るい今の場所に作るべきだと思い直した。その墓が、妻が死んでやっと出来上がった。掛けていた共済金に、子供や親戚の協力を得て、どうにか墓を作る資金を工面できた。
そしてその墓が出来たのは一年忌の前である。
私の体調は相変わらずだったが、無事に納骨を済まして、最初の春が来た。桜に囲まれた墓地が好きだったから、桜の花びらが舞う今の墓地を、きっと気に入っているだろう。
私は最初、外柵は白御影、新柱のみ「すりん」の黒御影で、重厚な雰囲気の墓を建てたいと話したが、芙美湖は
「どうせなら、桜御影がいいわ。雰囲気が温かいから」と注文をつけた。そのことを娘が思い出して、無理しても石は桜にすべきだと言い張った。
石の単価から計算して、予算をオーバーするが、結局は文子の思いと琳子の主張に引きずられるように桜御影に直前になって変更した。 しかも、草むしりをしないで済むように、外柵から一切を桜御影に変えた。
美湖が好んだように、墓地の桜に似合う総桜御影の温かい感じの墓に仕上がった。
墓の名称も、家名や家紋の下に小さく、「桜の墓所」と刻んだ。
墓と云うよりも、芙美湖が桜や鳥に囲まれて華やぐ花宴の墓所としたかったからだ。その桜の墓所に琳子と婿を伴ってやってきた。
墓地脇の墓参者のための休憩所には既に大きくなった桜が三本植えてある。その桜が満開である。その花びらが何枚も風に飛ばされて墓地に散っている。
その何枚かが、芙美湖の名前を彫りこんだ墓誌に張り付いている。 とつぜん娘が声を上げた。
「錯覚かしら。ママの声がしたみたい」
そして意味のないことを何か叫んだ。連れていた犬がけたたましく吠えた。動物らしい鋭敏な感覚で、なにか異常な気配を感じたのか、それとも風の悪戯か分からない。
ひょっとしたら娘が感じたように、芙美湖がそこに佇んでいたのかもしれない。
つづく