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哲学猫麻耶の一部

動物 011 - コピー
動物 011 - コピー
 生き抜くとは大変のことである。犬でも猫でも同じだ。見目麗しく生まれたら、血統書付きで生まれたら、良家に貰われて、安楽な一生を送ることが出来るかも知れない。

 ただし我が家の「七輪コンロ」みたいに、アメリカ生まれの、由緒正しき血統書を持ちながら(血統書名:アメリカン・ユートピア・ファンタジー:母方はアメリカチャンピヨン)生まれつき歯並みがやや悪かったことから、世界的規模を誇る大百貨店の動物販売コーナーでも売れ残り、たまたま稼いだアルバイト代金を持って動物コーナーを見に来ていた娘にまとわりつき、あまりにも必死にまとわりつくものだから、娘の同情をかい、おまけにその動物コーナーの女性店長がなかなかの商売人で、この娘さんに買って貰わなければ売れ残ると、猛烈にセールスを開始して、モノの見事に、世の中のことを知らない娘の財布をひらかせたのだ。
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小説「芙美湖葬送」

 「芙美湖葬送」は私小説です。
  

 妻を看取ってから間もなく17年になる。月日の経つのは早いものだ。はるか昔の出来事になってしまった。妻が斃れて三か月後にこの世を去った。もう十七年前のことだ。七月の暑い日だった。妻は、もともと甲状腺肥大を患っていた。甲状腺ホルモンが極端に足らなくなったり過剰になったりした。喉が腫れあがった。結果的には橋本氏病になった。体調も年中不調だった。
 その年は猛烈な暑さもあって、異常なまでに汗をかいた。
 「みてよこの汗」と妻は額を突き出した。
 
 私も体調を崩していた。血圧が異常に高かった。そんな私を妻は不安に思っていた。二人に寝込んら大変なことになる。多くに高齢者夫婦がそんな不安の中で暮らしている。どうかしたの。妻が私を振り返った。その瞬間ぐらりと私の体が泳いだ。

 その時も私は降圧剤を止めていた。体調によって飲んだり飲まなかったりするは良くない。医師からは注意されていた。しかし現実に、飲むと却って不調になった。そのことを医師に訴えたが、医師は無視した。

 呑むか飲まないかは自分で決める。自己責任でいい。飲んで体調が悪くなるなら飲まない方がいいに決まっている。それで死ぬなら、仕方ない。ただ病弱の妻のことが気になっていた。同じ総合病院の同じ医師に掛かっている。

 同じ町内に娘夫婦がいる。長女も次女も別に所帯を持っている。もし私がいなくなったら相談し合って母親の面倒くらい看るだろう。

 変な話だが死にたいとは思わなかったが、生きたいという強い欲求もなかった。その時の状況で、どうなっても構わない。なかば諦めに似た感情があった。妻も六十歳を幾つか超えていたし私は七十歳に近かった。友人の二人はごく最近ん死だ。そんな年齢になっていたのである。 

 私は妻と母の為に墓を造りたいと考えていた。田舎にそのままになっている父親と妹の骨がある。田舎は引き払ったから、いまは神戸に遷っている。その骨を墓を造ったら移したいと思っていた。
 さいわい市営霊園が抽選で当たった。


一緒に入れる墓は造りたい。墓地は既に用意してある。墓工事する金がなかった。なにしろ六平方メートルの大型区画なのだ。市営だから抽選である。抽選にあ当たって毎年管理費を払ってきた。工事だけが始まっていない。始まれば二週間以内完成するだろう。肝心の金がない。ところが妻の突然の死でその金が出来た。共済金が入ったのである。

 その金で墓を造った。せっかく作った墓だから妻の骨をおさめたい。私も死ぬかもしれない。母親も九十歳を超えている。いつ死んでもおかしくない。しかし母親は同居している実の娘と一緒に金をだし合った別な墓もつくってある。呆けたのだろうか。ときに老人の思考は分からないことがある。わつぃもそう思われているのだろうか。墓誌に、妻とと一緒に母まで朱で彫りこんである。私も同じだ。縁起でもない、と娘に嫌な顔をされたが、結果的にそうなってしまってもし刀と思っている。
 
 墓が完成し、納骨を済ませてからは、娘に誘われても墓参は避けていた。気が滅入るからである。しかし春になって、簡単な花見を、墓の近くにある休憩所でやろうと婿に誘われた。
 墓所の脇に、墓参客のための休憩所がある。丸いテーブルが幾つかしつられてある。そのテーブルには固定の木の椅子が取り付けある。弁当を開くにはもってこいの場所だし、市営霊園だから、派手に賑あう花見客もいない。引きこもりがちになっている私を連れ出そうという婿殿の思いである。
 断り切れないで結局行くことにした。

 私は、台湾から引き揚げたた直後に父と妹を失っている。
 その骨を、家族と一緒に葬りたいとかねがね思って来た。
 亡くなったお爺ちゃんのためにも、早く墓を作って、死んだら、此処にみんなで眠ろうねと妻にははいつも語ってきた。

 妻は体調がいい時は霊園に連れてきたことがある。まだ空き区画のままの時だ。バブル崩壊後の不況で、なかなか墓を作る金を捻出できない。そんな時、墓地の広さが六平方メートと広いことから、内密に権利を譲って欲しいという話が墓園業者を通じてあった。その代わりに半分の、三平方メートルの墓を、墓石工事込みて無料提供する、という話だった。
 妻がまだ外出できる頃だったので、車いすを積んでその霊園を見に出かけた。同じ市営ながら山の斜面を削った霊園である。
 場所を見た途端、妻の顔が曇った。小さな声で、こんな寂しいところ嫌だわ、といった。

 それ以来、妻はあんな寂しい墓は嫌だと言い続けた。桜に囲まれた今の墓地に比べれば、確かに辺鄙な山奥にあったし、山の急斜面を削って作った墓は、見るからに暗く重い雰囲気だった 墓とは、もともとそんなものだと云ったが、妻が頑としてあんな寂しいところには眠りたくないと云った。戦後のどさくさ紛れに、死に、そのまま放置した形の父や妹のためにも、やはり妻の云うように、明るい今の場所に作るべきだと思い直した。その墓が、妻が死んでやっと出来上がった。掛けていた共済金に、子供や親戚の協力を得て、どうにか墓を作る資金を工面できた。
 そしてその墓が出来たのは一年忌の前である。

 私の体調は相変わらずだったが、無事に納骨を済まして、最初の春が来た。桜に囲まれた墓地が好きだったから、桜の花びらが舞う今の墓地を、きっと気に入っているだろう。
 私は最初、外柵は白御影、新柱のみ「すりん」の黒御影で、重厚な雰囲気の墓を建てたいと話したが、芙美湖は
「どうせなら、桜御影がいいわ。雰囲気が温かいから」と注文をつけた。そのことを娘が思い出して、無理しても石は桜にすべきだと言い張った。
 石の単価から計算して、予算をオーバーするが、結局は文子の思いと琳子の主張に引きずられるように桜御影に直前になって変更した。 しかも、草むしりをしないで済むように、外柵から一切を桜御影に変えた。
 美湖が好んだように、墓地の桜に似合う総桜御影の温かい感じの墓に仕上がった。
 墓の名称も、家名や家紋の下に小さく、「桜の墓所」と刻んだ。

 墓と云うよりも、芙美湖が桜や鳥に囲まれて華やぐ花宴の墓所としたかったからだ。その桜の墓所に琳子と婿を伴ってやってきた。
 墓地脇の墓参者のための休憩所には既に大きくなった桜が三本植えてある。その桜が満開である。その花びらが何枚も風に飛ばされて墓地に散っている。

 その何枚かが、芙美湖の名前を彫りこんだ墓誌に張り付いている。 とつぜん娘が声を上げた。
「錯覚かしら。ママの声がしたみたい」
 そして意味のないことを何か叫んだ。連れていた犬がけたたましく吠えた。動物らしい鋭敏な感覚で、なにか異常な気配を感じたのか、それとも風の悪戯か分からない。
 ひょっとしたら娘が感じたように、芙美湖がそこに佇んでいたのかもしれない。


                       つづく

芙美湖葬送ー1

 小説「芙美湖葬送」は私小説です。


 妻を看取ってから間もなく17年になる。月日の経つのは早い。もう、はるか昔の出来事になってしまった。妻が最後に斃れたのは樹七年前の七月である。もともと橋元氏病を患っていた。甲状腺ホルモンが極端に足らなくなったり過剰になったりしていた。体調も年中不調だった。波があった。
 その年は猛烈な暑さもあって、異常なまでに汗をかいた。
 「みてよこの汗」と妻は額をみせた。

 私も体調を崩していた。血圧が異常に高かった。不安を感じたのか妻は私を振り返った。どうかしたの。その瞬間ぐらりと私の体が泳いだ。その時も降圧剤を止めていた。体調によって飲んだり飲まなかったりすることがあった。飲むと却って不調になった。そのことを医師に訴えたが、医師からは逆に注意された。しかし飲んで体調が悪くなるなら飲まない方がいい。私はそう心に来てていた。それで死ぬなら、それでいい。ただ病弱の妻が気になった。しかし同じ町内に二組の娘夫婦が要る。私がいなくなったら相談し合って母親の面倒くらい看るだろう。

 変な話だが死にたいとは思わなかったが、生きたいという欲求もなかった。その時の状況で、どうなっても構わない。なかば諦観に似た感情があった。妻も六十歳を幾つか超えていたし私は七十歳に近かった。友人の二人は既に死んでいる。 

 妻と私と母親の為に一緒に入れる墓は造りたい。墓地は既に用意してある。墓工事する金がなかった。なにしろ六平方メートルの大型区画なのだ。市営だから抽選である。抽選にあ当たって毎年管理費を払ってきた。工事だけが始まっていない。始まれば二週間以内完成するだろう。肝心の金がない。ところが妻の突然の死でその金が出来た。共済金が入ったのである。

 その金で墓を造った。せっかく作った墓だから妻の骨をおさめたい。私も死ぬかもしれない。母親も九十歳を超えている。いつ死んでもおかしくない。しかし母親は同居している実の娘と一緒に金をだし合った別な墓もつくってある。呆けたのだろうか。ときに老人の思考は分からないことがある。わつぃもそう思われているのだろうか。墓誌に、妻とと一緒に母まで朱で彫りこんである。私も同じだ。縁起でもない、と娘に嫌な顔をされたが、結果的にそうなってしまってもし刀と思っている。
 
 墓が完成し、納骨を済ませてからは、娘に誘われても墓参は避けていた。気が滅入るからである。しかし春になって、簡単な花見を、墓の近くにある休憩所でやろうと婿に誘われた。
 墓所の脇に、墓参客のための休憩所がある。丸いテーブルが幾つかしつられてある。そのテーブルには固定の木の椅子が取り付けある。弁当を開くにはもってこいの場所だし、市営霊園だから、派手に賑あう花見客もいない。引きこもりがちになっている私を連れ出そうという婿殿の思いである。
 断り切れないで結局行くことにした。

 私は、台湾から引き揚げたた直後に父と妹を失っている。
 その骨を、家族と一緒に葬りたいとかねがね思って来た。
 亡くなったお爺ちゃんのためにも、早く墓を作って、死んだら、此処にみんなで眠ろうねと妻にははいつも語ってきた。

 妻は体調がいい時は霊園に連れてきたことがある。まだ空き区画のままの時だ。バブル崩壊後の不況で、なかなか墓を作る金を捻出できない。そんな時、墓地の広さが六平方メートと広いことから、内密に権利を譲って欲しいという話が墓園業者を通じてあった。その代わりに半分の、三平方メートルの墓を、墓石工事込みて無料提供する、という話だった。
 妻がまだ外出できる頃だったので、車いすを積んでその霊園を見に出かけた。同じ市営ながら山の斜面を削った霊園である。
 場所を見た途端、妻の顔が曇った。小さな声で、こんな寂しいところ嫌だわ、といった。

 それ以来、妻はあんな寂しい墓は嫌だと言い続けた。桜に囲まれた今の墓地に比べれば、確かに辺鄙な山奥にあったし、山の急斜面を削って作った墓は、見るからに暗く重い雰囲気だった 墓とは、もともとそんなものだと云ったが、妻が頑としてあんな寂しいところには眠りたくないと云った。戦後のどさくさ紛れに、死に、そのまま放置した形の父や妹のためにも、やはり妻の云うように、明るい今の場所に作るべきだと思い直した。その墓が、妻が死んでやっと出来上がった。掛けていた共済金に、子供や親戚の協力を得て、どうにか墓を作る資金を工面できた。
 そしてその墓が出来たのは一年忌の前である。

 私の体調は相変わらずだったが、無事に納骨を済まして、最初の春が来た。桜に囲まれた墓地が好きだったから、桜の花びらが舞う今の墓地を、きっと気に入っているだろう。
 私は最初、外柵は白御影、新柱のみ「すりん」の黒御影で、重厚な雰囲気の墓を建てたいと話したが、芙美湖は
「どうせなら、桜御影がいいわ。雰囲気が温かいから」と注文をつけた。そのことを娘が思い出して、無理しても石は桜にすべきだと言い張った。
 石の単価から計算して、予算をオーバーするが、結局は文子の思いと琳子の主張に引きずられるように桜御影に直前になって変更した。 しかも、草むしりをしないで済むように、外柵から一切を桜御影に変えた。
 美湖が好んだように、墓地の桜に似合う総桜御影の温かい感じの墓に仕上がった。
 墓の名称も、家名や家紋の下に小さく、「桜の墓所」と刻んだ。

 墓と云うよりも、芙美湖が桜や鳥に囲まれて華やぐ花宴の墓所としたかったからだ。その桜の墓所に琳子と婿を伴ってやってきた。
 墓地脇の墓参者のための休憩所には既に大きくなった桜が三本植えてある。その桜が満開である。その花びらが何枚も風に飛ばされて墓地に散っている。

 その何枚かが、芙美湖の名前を彫りこんだ墓誌に張り付いている。 とつぜん娘が声を上げた。
「錯覚かしら。ママの声がしたみたい」
 そして意味のないことを何か叫んだ。連れていた犬がけたたましく吠えた。動物らしい鋭敏な感覚で、なにか異常な気配を感じたのか、それとも風の悪戯か分からない。
 ひょっとしたら娘が感じたように、芙美湖がそこに佇んでいたのかもしれない。


                       つづく




 

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あれ?開いた。お久しぶりです。書けるんですね。

84歳になりました。ほんとうは20歳までに死ぬつもりでした。台湾沖海戦の時国民学校6年でした。たしか。台湾北港のサトウキビ畑には帝国海軍と陸軍の航空隊が同居していました。海軍の三等飛行兵曹?兵曹長?の手塚んさんに可愛がられました。特攻に出る数日前に会いました。

あとは頼んだぞ。少国民に!
少年航空学校にはいり、特攻に志願したいと思いました。
軍国少年の夢でした。

何もできないまま、84歳になりました。

谷村新司の「群青」を聴くときは、直立不動で敬礼をしてききます。

いまだに涙が流れます。

なんだろね。あの時間は。…あの唄、知ってる?


泣かないで 和田 弘とマヒナスターズ / 再会 若山かずさ&和田 弘とマヒナスターズ

気が付いたら八十三歳になっていた。なんとなく生きた。激しく生きた時間もある。もう遠い思い出になった。生物学的にいえば、六十兆からの細胞が、生きては生まれ、生まれては死に、他の細胞と協調し、情報を交換し、敵対的な細胞や、ウイルスと闘いながら、私という個体を八十三年間維持して来たのだ。
あとどのくらいの期間そんなことが続くのか。

ある瞬間、血液の流れが止まる。細胞には、酸素も栄養が必要だから、一定期間供給がなかったら、それぞれの細胞は死ぬだろう。それが老いで死だ。
生殖意欲や能力がなくなった時点から、生物としての価値は既にないという生物学者もいる。

うん、うん。わかる。
でも、あの時間はあったのかな?

百年の夢、百年の勘違い?

逆ですよ。

99%の絶対的多数によって、たった1%の富裕層が、消費税を中心とした租税仕組みによって戦々恐々として生きている・・・

もし99%が欲望を捨て必要最低限度の暮らしに慣れたら(いまでも高校生は金や車に関心を失っている)金融資本主義は崩壊し、金満家は生きる糧を失う・・・、

ユダ金を中心とした国際ハイパー・エリート支配システムは壊れる。100年くらいかかるけど。

私は生きていない。優雅に死にます。
83歳Gさんの独り言!といって共産党なんて骨董品は信用していないけど・・・ 削除

部分転載
https://blogs.yahoo.co.jp/roor6akio/64973532.html?vitality

毅然たる美女!ヴァリ!

The Third Man・・・

第三の男 をみる。
古い映画、戦後のウイーンで起きる事件・男・女・・・モノクロ

どうせこの世は移ろってゆく。
何が正しくて何が間違っていたかは時間が決める。

たかが300年の近代文明が、
一億年生きた巨竜時代を思っても無駄である。
38億年遊弋するミトコンドリアを思っても同じ。

チェ、胸糞悪い!
破棄捨てるようにいうのは黒澤明の「酔いどれ天使」
・・・医者である、

肺結核治療に闇市で買った生卵しかないが、
今の医者より崇高である、

確かに人類は増えすぎた、
でも整理や排除にワクチンじゃ効かない!?

今日は亀戸天神である!


亀戸通り、
好い響きだな、

小さな飲み屋があった、安かった、
カウンターには、
ママの若いころの写真が飾ってあった、

確かに美人だ、
男に逃げられたんだって、

それっきり男運がない、

付き合ってもいいわよ、
いえいえここでママと飲んでいる方がいい、

そうねえ、

時間は残酷だな、

そんな想い出しかない、この街には、
でもこの街がすきだ、
むかしトロリーが走っていた浅草を経由して王子から池袋まで、

終点の池袋には下駄ばきデパートの西武があった、
東大卒全学連闘志の堤清二さんが仕切っていた、
理論派が集まっていた、

その西武も中身はすっかり変わった、
実はアメリカのヘッジファンドに乗っ取られたのよ、ま、ようなものかな、

時遷り時代は変わる、
日本もそろそろ滅ぶな、

毀れるわけじゃない、なくなるわっけじゃない、
何処の国だか何処の街角だかわからなくなるだけ、

官庁街には米国旗か中国旗が翻っていたりする、

でも庶民は生きる、
政治にも経済にも関係なく、

亀戸通りもそのまま、
亀戸天神もそのまま、

4Kの映像がそんな未来を語っている。

戦争なんか止めて音楽でいこう!

https://blogs.yahoo.co.jp/mugai1234

私は83歳の日本人の爺さんです。台湾生まれの台湾育ち。戦後日本に引き揚げて来た。最近新竹の天才的なストリート・ドラマーを発見した。誇らしい。嬉しい。まだ一回も生まれた台湾に戻っていない。いつか新竹に行きドラムを聴きたい。頑張れ。台湾のお嬢さんドラマー。


Iam an 83 year old Japanese grandfather. Born in Taiwan and raised in Taiwan. I pulled it back to Japan after the war. Recently discovered a genius street drummer of Hsinchu. proud. happy. I have not returned to Taiwan which was born once. Someday I want to go to Hsinchu and listen to drums. Hang in there. Taiwan's beautiful drummer.


我是一名83歲的日本祖父。 出生在台灣,在台灣長大。 戰爭結束後,我把它拉回日本。 最近發現了一位新竹天才街頭鼓手。 它很自豪。 我很高興。 我沒有回到曾經出生過的台灣。 有一天我想去新竹,聽鼓。 祝你好運。 台灣美麗的鼓手。

夢亥(mugai)

猪突夢念

夢亥卓也

Author:夢亥卓也
1935年生まれ。満84歳。早生まれのため後の昭和ヒトケタ学年組。霧社事件の地、台湾・霧社で生まれ戦後日本へ引き揚げる。会社勤務、会社経営の後各種の疾病罹患を経て「死ぬ準備」「医療という名の踏んだり蹴ったり」「全労済の不払い」「若草物語暮色」「老病死工場の白い雲」「ぼっけもんの蒼い空」「芙美湖葬送」「哲学猫麻耶の哄笑」他を執筆開始。一部を当ブログ小説欄で発表。

夢見る猪は月に吼える。

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